2009年07月02日

福岡を統治していた黒田藩は賛生館という

1867年、当時福岡を統治していた黒田藩は賛生館という医学教育を行う藩校を天神に設立した。1872年に学制が施行されるといったん廃校となったものの附属病院はその間も継続した。同病院は1874年に修猷館の附属診療所となり、1879年には福岡県立福岡医学校の附属病院へ改組された。福岡県立福岡医学校が廃校となった後は福岡県立福岡病院として存続することになる(1896年6月22日、現在の病院地区である福岡県筑紫郡千代村に移転)。
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1886年に帝国大学令が公布されると九州に帝国大学を設置する機運が高まり、1900年1月29日の第14帝国議会において「九州東北帝国大学設置建議案」が可決された。建議案の可決後も古くから医学の盛んだった長崎県や第五高等学校が設置されていた熊本県との間で誘致の綱引きが行われていたが、結局は賛生館の流れを汲む福岡県立福岡病院を母体に京都帝国大学の分科大学として福岡医科大学が設置された。

その後は資金難により九州帝国大学の設置は進まなかったが、古河財閥から1906年に「福岡工科大学、仙台理科大学、札幌農科大学」の建物建設へ寄付の申し出があり、設置の動きが高まることとなる。古河財閥の寄付金約100万円のうち6割ほどが九州帝国大学工科大学校舎建設の資金として当てられ、さらに福岡県の寄付金によって1911年1月1日に九州帝国大学が設立された。残りの4割は札幌農学校の東北帝国大学農科大学昇格(1907年9月)と東北帝大理科大学新設(1911年1月1日)のために用いられている。

2009年06月13日

結び目には円周を一周する向きにしたがって

結び目には円周を一周する向きにしたがって向きが入る。一つの結び目には正逆二つの向きを入れることができる。向き付けられた結び目の向きを逆にしても元の結び目と同じになるとき、その結び目は可逆であるという。例えば三葉結び目、八の字結び目は可逆である。

結び目、絡み目は三次元空間に浮かんでいるが、これを二次元に射影して二次元の曲線のように表現することができる。このとき、三つの線が互いに一点で重なり合わないように射影してやると、奥にある線のうえを手前にある線が横切るとき、その交点で奥にある線がちょっと切れているように描けば、線の前後関係を損なうことなく結び目を二次元に射影することができる。
星と光たち
オリンピックの驚き
海のお話
ウサギの秘密
めの付く言葉
音楽歴史
まの付く言葉
バレンタインデー
たばこ禁煙
酒に飲まれて
皮膚科学
為替
アーチェリー
ボイスドラマ
九州
カポエラ
ビオトープ
縄跳び
包装
ソフトボール


ドウカーの表示法
n交点の結び目の射影図を、n個の偶数の列によって表示する手法。
コンウェイの表示法
タングルという概念を用いて結び目や絡み目を表示する手法。
組み紐による表示法
組み紐を用いて結び目や絡み目を表示する。1923年にアレキサンダーが任意の結び目や絡み目が組み紐として表現できることを証明している。
アルティンのブレイド群による表現

2009年06月09日

医学(いがく)は、生体の構造や生理機能についての

医学(いがく)は、生体の構造や生理機能についての探求や、疾病の性状、原因について調査し、その診断、治療、検査、予防等についての研究診療を行う学問である。

欧米では、医学を応用科学に含めるのが一般的だが、日本では日本十進分類法に見られるように自然科学に含めるのが一般的である。他の自然科学と同様に絶対的な正解のない(反証可能性を有する)学問であるが、フロイトの精神
「医学(醫學)」は、哲学(哲學)・民主主義・社会(社會)などと同じく、明治時代に英語・ドイツ語・フランス語などを訳出して作られた造語「新漢語」のひとつで、英: midicineまたは独: medizinの訳語とする説が有力である。しかし、中国では明の政権が安定する15世紀頃から、よく用いられるようになり、「醫學○○」という書物が多数見られるようになる。

それまでの伝統中国医学は、単に「医」または「医方」と呼ばれ、勘と経験に頼る部分が非常に大きかったが、この頃になると、鍼灸だけでなく、漢方薬においても、中国の根本的な理論である陰陽五行思想や、経絡理論などの理で固めた理論的・学問的な色彩が強くなり、それを強調するために、あえて「醫學」という言葉が流行するに至った。

日本では、西洋的な思考様式に基づく医学を「西洋医学」、伝統中国医学の知識に基づく医学を「東洋医学」とも呼ぶ。
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西洋において「医」の起源は古代ギリシアのヒポクラテスとされている。その後古代ローマのガレノスがアリストテレスの哲学(学問の集大成)を踏まえ、それまでの医療知識をまとめ、学問としての医学が確立されたと言われている。ガレノスはその後、数百年ものあいだ権威とされた。

中世では、外科はキリスト教徒の職業とはみなされていなかった。病気は神の恵みであり、医療は神への冒涜とされた。当時は理容師(英Barber surgeon:理容外科医とも言われた)によって外科手術やまじない的な瀉血治療などが行われていて、これは学術的な医学が発達するまで広く行われていた。このように、ヨーロッパにおいては、古代ギリシア等の知識が継承されることなく、学問としての医学は低迷したが、これらの知識は、イブン=スィーナーやイブン=ルシュドに代表される、イスラム世界において継承された。

ルネッサンス期に、これらイスラム世界における書籍が翻訳され、パドヴァ大学などで研究され始めるにつれて、人体に対し(部分的ではあるが)実証的研究がはじまり(→実証主義)、それまでの医学上の人体知識が徐々に否定されはじめ、近代科学としての医学が萌芽した。

日本では安土桃山時代に本格的な西洋医学が伝えられ始めたといわれていが幕末に蘭学とともに西洋医学書の翻訳などが行なわれ、明治維新後に漢方医学を廃し西洋医学を医学とした。

西洋医学の発祥の地はドイツとされている。

"西洋医学は実証的"というようなイメージだけは一般の人々の間で先行していたものの、その実態としては、実は、個々の治療法の効果は統計的・科学的には十分に検証されないまま、医師個人やグループがめいめいの少数の経験や「勘」で判断し、その怪しげとも言える知識が師から弟子へと伝承されるような状況が長らく続いていた。が、近年(ほんの10年?20年前)になって、ようやく、本当の意味でのより厳密な実証を求めるエビデンスに基づく医療が真正面から提唱され、この数年、次第に医学界に浸透しつつあり、標準的/望ましい とされる治療法が一部で毎年少しずつ入れ替わるようになった(つまり「エビデンスに基づく医療」という手法が実際に効果を挙げつつある)。

2009年04月25日

ガレリウス

ガレリウス(Galerius、250年 ? 311年5月5日)は、正式な名はガイウス・ガレリウス・ウァエリウス・マクシミアヌスで、305年から311年まで在位したローマ皇帝である。

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ガレリウスは、ダキアの首都セルディカ(現ブルガリアの首都ソフィア)の近くに生まれた。彼は、元々は父の職業と同じ牧夫となり、アルメンタリウス(ラテン語で家畜の群れ armentum)という名字を名乗っていた。やがて彼は軍人となり、アウレリアヌス帝やプロブス帝といった皇帝の下で名を上げている。そして、293年にテトラルキア(四分統治)が開始されるとき、コンスタンティウス・クロルスと共に副帝に任命された。このとき、ディオクレティアヌス帝の娘ヴァレリア(後にガレリア・ヴァレリアとして知られる)を妻に迎え、同時にイリュリア属州を任された。

296年、サーサーン朝ペルシアとの開戦にあたり、ガレリウスはドナウ川領域からユーフラテス川領域へ持ち場を変えた。彼の最初の戦役は壊滅的な敗北に終わり、メソポタミア地方を失うことになった。しかし、297年にはアルメニアの山中を通して軍を進め、ナルセ1世に対して決定的な勝利を収め、ナルセ王の後宮を含む膨大な戦利品を手に入れた。ガレリウスは有利な戦況を推し進めて首都クテシフォンも占領した。298年にナルセ王は降伏したため、メソポタミアはローマの支配下に戻り、さらにチグリス川の東の一部地域までもローマの支配下に置かれた。ローマ帝国が東に版図を最も広げたのはこのときである。

305年、ディオクレティアヌス帝とマクシミアヌス帝の退位に伴い、ガレリウスは同じ副帝だったコンスタンティウスと共にすぐさま正帝の座に着き、忠実な召使だったフラウィウス・ウァレリウス・セウェルスと、いとこのマクシミヌス・ダイアを副帝の位に就けた。これによってガレリウスは、いずれコンスタンティウスが亡くなるときに、全ローマ帝国のただ一人の支配者となろうと狙っていた。彼は、コンスタンティウスの息子コンスタンティヌスを東のガレリウス宮廷に客として招き、さらに自らの地位を固めた。

2009年04月08日

タンゴの歌詞のスペイン語

タンゴの歌詞のスペイン語

タンゴの曲の多くには、スペイン語(リオプラテンセ・スペイン語)の歌詞がついているが、"La última curda" (最後の酔い) の "curda"(酔い) のようにブエノスアイレス地方の俗語である ルンファルド (lunfardo) がよく用いられる。日本の西和辞典で引きづらいこともしばしばである。

また、vos (あんた,túに相当する) およびそれに相当するという南米の言い回しボセオ(voseo) が出てくることもある。

¡Volvé! - 戻ってきて!
¡Ya sé, no me digás! ¡Tenés razón! - 分かったから、俺に言うなよ!その通りだ! …… 意訳「最後の酔い」から
ボセオについては、日本の西和辞典では、具体的な活用形ですらも取り上げられているとはいえない状態である。英語の voseo や、その他のサイトで調べるしかない。

ひとつのタンゴに、違った複数の歌詞がつけられることもあり

ラ・クンパルシータのように、ひとつのタンゴの曲に、違った複数の歌詞が付けられることがある。

よく知れらた例 ラ・クンパルシータ エル・チョクロ フェリシア

作詞者に敬意が示されているタンゴ

タンゴの歌詞について、カミニート Camnito の ガビノ・コリア・ペニャロサ Gabino Coria Peñaloza や、 スール Sur の オメロ・マンシ Homero Manzi のように、作者に敬意が表される場合も少なくない。歌詞が文学的なタンゴは歌がつけられた演奏になる傾向にある。

歌詞なし演奏も当たり前

歌詞なしで演奏されることも、ごく普通である。フェリシア や パリのカナロ のように、歌詞なし演奏がほとんどの曲もある。

また、レスポンソや、タンゴ 「とろ火で」 のように歌詞がつけられていない場合もある。

スペイン語以外の歌詞がつけられているタンゴ

原曲にスペイン語の歌詞がつけられているタンゴに、別の言語の歌詞がつけられる場合もある。エル・チョクロ El choclo が、キッス・オブ・ファイア Kiss of Fire として、英語の歌詞がついて、アメリカで歌われヒットした。

日本では、菅原洋一がNHK紅白歌合戦で、ラ・クンパルシータを日本語の歌詞で歌っている。冴木杏奈が着物姿で、カミニートを歌っている映像が YouTube で、アップロードされてある。淡谷のり子も、日本語の歌詞で、ラ・クンパルシータやジーラ・ジーラを歌っていた。

原語がスペイン語でない歌が、タンゴとして演奏される場合もある。コンチネンタル・タンゴの歌が、そうなる。シャンソンでは、小雨降る径 "Il pleut sur la route" と、恋心 "L'amour, c'est pour rien" が、タンゴとして演奏される場合もある。

他の種類の音楽との関連 [編集]
フォルクローレ

タンゴは、始めはフォルクローレから出発した。 初期のタンゴでは、ギター・バイオリン・フルートのアンサンブルで演奏されて、バンドネオンは定着せず、ミロンガ・カンドンベと同種のラプラタ諸国の民俗音楽であった。バンドネオンの導入により、タンゴの差別化がなされるようになった。ミロンガについては、タンゴとして演奏されることもある。

カルロス・ガルデルは、フォルクローレ歌手として活動を始めて、その後タンゴを歌いだした。ガルデルの歌にギター伴奏のタンゴに、タンゴ愛好家の人気があり、今でも頻繁に聴くことができる。

また、タンゴ楽団によるバルス・タンゴすなわちアルゼンチン当地のワルツの演奏も、よく聴かれ、フランシスコ・カナロ楽団の黄金の心 Corazón de oro が有名である。

ブエノスアイレスのタンゴ生演奏の店タンゲリア tanguería では、フォルクローレの演奏も行っているところもある。東京の六本木にありタンゴバプとして有名だった店 「カンデラリア」 (閉店) の店主の高野太郎は、フォルクローレ歌手である。タンゴもフォルクローレも、どちらもレパートリーとしている歌手も、目立つ。

クラシック音楽

エドガルド・ドナートがクラシック系統の音楽学校であるフランツリスト音楽院の優等生だったように、アルゼンチンでも日本もふくめ他地域でもクラシック音楽を専門的に学んだ人がタンゴ界で活躍することは、めずらしくない。

タンゴも最初期のエル・エントレリアーノから、半音階をとりいれたりしている。また、カデンツァなど、クラシック音楽の用法が、タンゴに応用されている。スペインのクラシック音楽の作曲家イサーク・アルベニスも、有名な「タンゴ」を作曲している。タンゴのビクトリア・ホテルの作曲者のフェリシアーノ・ラタサはクラシック音楽の作曲家と、伝えられている。

クラシック音楽に対抗意識をもちつつ対話していたタンゴの権威にアストル・ピアソラがいて、アルゼンチンに来たアルトゥール・ルービンシュタインに自作の曲を見てもらったり、ナディア・ブーランジェから作曲を学んでいたというエピソードがある。

また、クラシック音楽家でも、演奏にタンゴをあえて選ぶ人も出てきている。チェロ奏者のヨーヨー・マが、ピアソラ作曲のリベルタンゴを演奏曲目に選んでいる。

ジャズ

エドガルド・ドナートは、ウルグアイのジャズのカルロス・ウォーレン楽団に所属していたこともある。フランシスコ・ロムートは、ジャズピアニストとしても活躍していたこともあった。アストル・ピアソラは少年期はタンゴよりもジャズを好んでいたといわれている。タンゴも時代が下りモダンタンゴに近づくと、ジャズの影響が見られる曲も増えてくる。ちなみに、ピアソラは、ジャズ・タンゴを提唱しているし、ジャズの演奏家としている表現もみかける。

タンゴもジャズも、ピアノとコントラバスという楽器を使用するということでは、共通している。

ただ、ジャズの曲をタンゴとして演奏されたりすることは、なかなかありえない。エル・チョクロをキッス・オブ・ファイア Kiss of Fire として、ジャズで演奏されて注目されたことがある。アディオス・ムチャーチョスについてアメリカのジャズの権威のルイ・アームストロングの歌の録音もある。アメリカのルロイ・アンダーソンのブルー・タンゴ Blue Tangoが、ジャス楽団でも演奏されている。それ以外の例で、モダンタンゴ以外のタンゴがジャズとして演奏されることはあまりない。

シャンソン

小雨降る径 と、恋心については、タンゴとして演奏される場合がある。タンゴの曲がシャンソンとして歌われる例は、あまり見当たらない。

日本では、タンゴ歌手として出発した菅原洋一が、シャンソンを歌っている。シャンソン歌手の高英男が1961年度NHK紅白歌合戦で、同じくシャンソン歌手の芦野宏が1962年度NHK紅白歌合戦で、歌のタンゴの名曲カミニートを歌っている。シャンソン生演奏の店シャンソニエで、月何回か、タンゴの生演奏を行うところもある。

ラテン

スペインの歌手のフリオ・イグレシアスや、メキシコのトリオ・ロス・パンチョスのように、タンゴ歌手でないスペイン語圏の歌い手も、タンゴのレコード録音がヒットすることもある。

せいぜつ デスマ バグパイ セミナー ユビキノン バラック フロック ダバッグ パンパ ソドミー リング ウォーム ジョーズ ドーミ クロスバ サイバー バンガ ハミング メンソール しろかもめ ポトス ロリズム ニング ヨヒン ハイク ナビ雑草 レモネード ダウラギ イロード テーション テンショ フルベ ビーフシ マーメ ステイ レリック げんこつ スレーブ フラグ トップモー ランドレ チュクチ モノマー ニーズ トラポコ テンポ エニグ ギャラリー ラスト マーキュリ


2009年03月24日

改造と廃車

山手線への転用と扉増設改造・関東大震災の影響 [編集]
京浜間での電車運転は好評を博し、輸送量も増加していった。そのため本系列の昇降廊形2扉車では次第に乗客の乗降に支障をきたすようになっていた。そこでデハ6430形について1922年(大正11年)から車体中央部に幅1100mmの客用扉を増設し、片側3扉とする改造が実施され、山手線への転用が行われた。これにより側面窓配置も1D1221D1221Dに変更となった。

デロハ6130形、サロハ6190形については、1925年から扉増設と二等室の格下げが行われている。これにより、サロハ6190形は記号を「サハ」に改めるともに関東大震災により焼失した2両(6194, 6199)を末尾の2両(6213, 6214)で埋番するよう改番した。

デロハ6130形については、デハ6340形の末尾に編入されたが、関東大震災で焼失したデハ6340形3両(6351, 6352, 6361)を埋めるように3両(6142, 6144, 6145)改番されたほか、末尾の5両(6145 - 6149)に対し、デハニ6450形への改造(6455 - 6459)も行われている。デハニ6450形の改造車グループの側面窓配置は1d1D(荷)1D322D1である。

デハユニ6450形については、代替形式(デハユニ43850形)の製造が1924年ごろまでずれこんだため、長く京浜線で使用された。これも1924年度に山手線への転用されることとなり、郵便室を客室に転用して幅1100mmの扉を増設し、側面窓配置は1d1D(荷)1D3221Dとなり、形式もデハニ6450形に改められた。この際、1923年(大正12年)9月1日に発生した関東大震災で焼失廃車となったデハユニ6451を埋番する形でデハユニ6455がデハニ6451に改められている。

事業用車への改造 [編集]
1925年度に本系列2両が事業用車(配給車)に転用された。改造されたのは6140と6355で、いずれもデヤ33100形に編入(33100, 33101)された。当初の外観は一般の6340形とほとんど変わらなかったが、後年中央扉が拡幅(1800mm)され、外観が変わった。

郵便荷物車、荷物車への改造 [編集]
1927年8月、デハニ6450形4両(6456 - 6459)がデユニ33850形(33850?33853)に、1927年10月及び翌年4月、デハニ6450形6両が(6450 - 6455)デニ6450形(番号同じ)に改造された。さらに1928年8月にはデハ6340形1両(6389)がデユニ33850形(33854)、デハ6340形(6370 - 6372)がデニ6450形(6459 - 6461)に追改造されている。

デニ6450形は、種車によって形態が異なっており、5つのグループに細分される。また屋根上には後位側にもパンタグラフが増設され、2基装備となっている。本系列に属するものは、強調文字で表示する

6450 - 6454 : 側面窓配置は1d1D(荷)11D32D(荷)1D。荷重は9t。デハニ6450形改造。
6455 : 側面窓配置はD1D(荷)23D1D(荷)1d。荷重は9t。デハニ6450形改造
6456,6457 : 側面窓配置は1d1D(荷)1D12D(荷)21D。荷重は9t。種車はデハニ23850形(23850,23851)。
6458 : 側面窓配置はD1D(荷)1D22D(荷)2D1。荷重は8t。唯一狭幅車体を持つ異端車。種車はデハニ6465形(6465)。
6459 - 6461 : 側面窓配置はD1D(荷)1D1D(荷)1D1。荷物用両開き引戸の幅が1800mmに拡大されている。種車はデハ6340形。
デユニ33850形についても、1927年度改造の4両と、1928年度改造の1両で形態が異なる。荷重は郵便室3t、荷物室5t。

33850 - 33853 : 側面窓配置はD1D(郵)23D1D(荷)1D1。デハニ6450形(旧デロハ6130形)改造。
33854 : 側面窓配置はD1D(郵)11D1D(荷)1D1。荷物用両開き引戸の幅が1800mmに拡大されている。デハ6340形(旧デロハ6130形)改造。

1928年10月の車両形式称号規程改正にともなう変更 [編集]
1928年(昭和3年)10月1日に施行された車両形式称号改正では、本系列に属する車両はそれぞれ、三等制御電動車(旧デハ6340形)はモハ1形(1001 - 1025, 1065 - 1067)、郵便荷物合造制御電動車(旧デユニ33850形)はモユニ2形(2001 - 2005)、荷物制御電動車(旧デニ6450形)はモニ3形(3001?3012)、事業用制御電動車(旧デヤ33100形)はモヤ4形(4001, 4002)、三等中間付随車(旧サハ6190形)はサハ25形(25132 - 25154)に整理・編入された。

モハ1形のうち3両(1065 - 1067)については、他車種への改造のため大井工場に入場中であったため、便宜上の仮番号として付番されたものであり、現車に標記されたものではない。これらは、形式称号規程改正後にモユニ2形(2006)、モニ3形(3013, 3014)として落成している。

各車の新旧番号対照は次のとおり。斜体字で表記したものは新形式番号規程による番号。

デハ6340形 → モハ1形
6354 → 1001
6340 → 1002
6341 → 1003
6342 → 1004
6343 → 1005
6344 → 1006
6345 → 1007
6346 → 1008
6347 → 1009
6348 → 1010
6349 → 1011
6350 → 1012
6351 → 1013
6352 → 1014
6353 → 1015
6356 → 1016
6357 → 1017
6358 → 1018
6359 → 1019
6360 → 1020
6361 → 1021
6362 → 1022
6363 → 1023
6364 → 1024
6365 → 1025
6366 → (1065) → 3013
6367 → (1066) → 3014
6368 → (1067) → 2006
デユニ33850形 → モユニ2形
33850 → 2001
33851 → 2002
33852 → 2003
33853 → 2004
33854 → 2005
6368 → (1067) → 2006
デニ6450形 → モニ3形
6450 → 3001
6451 → 3002
6452 → 3003
6453 → 3004
6454 → 3005
6455 → 3006
6456 → 3007
6457 → 3008
6458 → 3009
6459 → 3010
6460 → 3011
6461 → 3012
6366 → (1065) → 3013
6367 → (1066) → 3014
デヤ33100形 → モヤ4形
33100 → 4001
33101 → 4002
サハ6190形 → サハ25形
6190 → 25132
6191 → 25133
6192 → 25134
6193 → 25135
6195 → 25136
6196 → 25137
6197 → 25138
6198 → 25139
6203 → 25140
6204 → 25141
6205 → 25142
6206 → 25143
6200 → 25144
6201 → 25145
6202 → 25146
6194 → 25147
6199 → 25148
6207 → 25149
6208 → 25150
6209 → 25151
6210 → 25152
6211 → 25153
6212 → 25154

改番後の状況 [編集]
モハ1形は、100PS電動機を持つ電車としては一番古いものであったことから1931年(昭和6年)から廃車が開始され、1933年(昭和8年)までに、全車が除籍された。このうち1932年(昭和7年)以後に廃車となった3両(1020, 1022, 1023)は、三信鉄道の開業用として譲渡され、いずれも後年鋼体化されている。

モユニ2形・モニ3形は、旅客用車よりは長く使用されたが、1934年(昭和9年)からモハ10形改造のモユニ12形・モニ13形への置換えにより、横須賀線での夏季の荷物輸送用に、電装解除の上残されていた2003と3007を除いて1938年(昭和13年)までに淘汰された。このうち、2003は付随車代用のまま1945年(昭和20年)1月にクハ79025に部品流用され消滅した。

モヤ4形は、特殊用途であったことから太平洋戦争後まで使用され、1948年、1949年(昭和24年)に廃車となっている。

サハ25形に編入されたグループは、電動車が早期に淘汰されたのに対して、長く使用された。これは1937年(昭和12年)に日中戦争が始まり、戦時体制となったことから資源活用の面から廃車が控えられたためである。また、1935年から開始された木製車の鋼体化改造に際しても、台枠構造の面から不適とされ、全車が木製車体のまま太平洋戦争後まで使用された。最後の車が廃車されたのは1952年(昭和27年)1月のことである。

戦前の譲渡 [編集]
1020 : 三信鉄道デ3(1934年) → デ103(1936年) → デ303(1939年) → 鉄道省デ303(1943年) → クデハ303(1951年) → クハ5802(1953年) → 伊豆箱根鉄道モハ47(1959年)
1021 : 三信鉄道デ2(1933年) → デニ201(1937年) → 廃車(1942年)
1022 : 三信鉄道デ1(1933年) → デ305(1939年) → 鉄道省デ305(1943年) → クデハ305(1951年) → クハ5804(1953年) → 大井川鉄道クハ506(1959年)
2002 : 南武鉄道モハ503(1939年) → 鉄道省モハ503(1944年) → クハ503(47) → クハ6020(1953年) → 廃車(1960年)
2005 : 三河鉄道モハ401(1939年) → 名古屋鉄道モ3101
3003 : 博多湾鉄道汽船デハ13(1940年) → 西日本鉄道モ15(1944年) → ク64(195x年) → モ15(1960年)(77)
3010 : 三信鉄道デ102(1936年) → デ302(1939年) → 鉄道省デ302(1943年) → クデハ302(1951年) → クハ5801(1953年) → 小湊鉄道キハ5801(1959年)
3012 : 駿豆鉄道モハ101(1935年5月) → 岳南鉄道モハ101(1949年) → モハ1103(1960年) → 近江鉄道モハ102(1985年)
3013 : 駿豆鉄道モハ102(1935年5月) → 岳南鉄道モハ102(1949年) → クハ102(1953年) → 廃車(1963年)

戦災廃車 [編集]
本系列も、太平洋戦争末期の米軍の空襲により、多数が失われた。これらは、戦後の1946年に除籍され、輸送力不足にあえぐ私鉄に譲渡された。これらは、復旧と併せて鋼体化を実施のうえ使用された。戦災廃車(同時期の事故廃車を含む)は、次のとおりである。

25134 : 東京急行電鉄(入籍せず)
25136
25137 : 東京急行電鉄(入籍せず)
25142 : 東京急行電鉄(入籍せず)
25144(事故)
25148 : 西武鉄道クハ1319
25149
25150
25153 : 西武鉄道クハ1320

老朽廃車と譲渡 [編集]
戦中戦後の酷使により疲弊した本系列は、63系電車の量産と並行して整理が進められていった。これらの大半は西武鉄道に譲渡され、輸送力の増強に一役買った。その状況は次のとおりである。

4001 : 富士山麓電気鉄道モハ20(1949年) → モハ601(1951年?) → 岳南鉄道(貸渡。1957年3月) → 岳南鉄道モハ1102(1960年4月) → 廃車(1969年12月) *譲渡時にモヤ4002と振替
25132 : 西武鉄道クハ1221(1951年9月) → クハ1425(1953年9月)
25133 : 西武鉄道クハ1222(1951年9月) → クハ1230[II](1953年9月) → クハ1413(1955年9月) → サハ1413(1958年10月)
25135 : 秩父鉄道クハ33(1950年) → クハ68(1953年10月) → クハニ29(1953年11月)
25138 : 西武鉄道クハ1328(1953年)
25139 : 西武鉄道クハ1223(1953年6月) → クハ1417(1955年9月) → サハ1417(1958年12月)
25140 : 西武鉄道クハ1227 → クハ1228 → クハ1274 → クハ1316(??)
25141 : 西武鉄道クハ1224(1951年9月) → サハ1510(1955年5年)/ → クハ1330(1953年6月)
25143 : 西武鉄道クハ1272(1953年6月) → クハ1228[II](1954年6月) → クハ1411(1955年9月) → サハ1411(1958年8月)
25145 : 西武鉄道クハ1271(1953年6月) → クハ1227 → クハ1425(1954年6月)
25146 : 西武鉄道クハ1312(1953年6月) → 伊豆箱根鉄道クハ81(1968年) → サハ81(1971年)
25147 : 西武鉄道クハ1313(1953年7月)
25151 : 西武鉄道(西武側に入籍の記録なし)
25153 : 西武鉄道クハ1320
25154 : 西武鉄道クハ1226 → クハ1272 - クハ1317(1953年)

ハンモ サイクロ ジャイル ダゴン ローツェ 夕立ち クフルト マーガ 白菜 エゴイ シプリン ヒート サテラ 黄昏 あくび ぞくげん スコール おきなれ プリスクール トーラス ブルー オートオオ レモンピー 天永 リュード フキ ギアシ ルクセン ジャイロ サイド ジェット ダックス フレア 四天王 マンゴー ピアニスト モヒカン ナビむつ デザイン キュー きつき ストップ じょうさい ヒヤシンス シュミナ リフネ メゾネット イング ダッシュ リング

2009年03月08日

アメリカ大陸諸国の独立年表

18世紀 - 中南米で反乱が散発的に起こる。
1775年?1783年 - アメリカ独立戦争でアメリカ合衆国がイギリスから独立。
1776年7月4日に独立宣言を公布、1781年までにほぼ独立し、1783年のパリ条約で独立が正式に承認された。
1780年 - ペルーで、インカ帝国最後の皇帝であったトゥパク・アマルの後裔を名乗るホセ・ガブリエル・コンドルカンキによるトゥパク・アマルの反乱が起こる。
1789年 - ヨーロッパでフランス革命が起こる。
1791年 - ハイチで独立運動が起こる(ハイチ革命)。
ハイチは1697年以降はフランス領サン・ドマングとなり、フランスの重要な植民地となっていた。フランス革命の影響で1791年にムラートや解放奴隷がフランソワ・トゥサンを指導者として反乱を起こした。
1803年?1815年 - ヨーロッパでナポレオン戦争が起こる。
スペイン、ポルトガルが一時フランスに占領された。
1804年 - ハイチがフランスから独立。
ナポレオンが登場するとハイチの独立運動は1802年に鎮圧され、独立運動の指導者フランソワ・トゥサンは捕らえられ獄死したが、その後も反乱は続き、ハイチは1804年に独立を宣言した。世界最初の黒人による共和国となった。独立の余勢をもって同じイスパニョーラ島東部のスペイン植民地も解放したが、後に支配を嫌った住民によりドミニカ共和国が1844年に独立した。
独裁政権やクーデターが繰り返され、1915?1934年の米国による軍事占領などもあり、今に至るも政情は安定せず、失敗国家(崩壊国家)とされている。
1807年 - ヨーロッパでナポレオンがポルトガルに侵攻。
ポルトガルのブラガンサ王朝は1807年11月に植民地のブラジルに亡命した。
1808年 - ヨーロッパでナポレオンがスペインに侵攻。
スペイン・ブルボン朝のカルロス4世を退位させた。
1809年 - ラプラタ (現在のアルゼンチン)で独立の動きが起こる。
ナポレオンがたてたスペインの傀儡王朝に対して、ラプラタの議会は退位させられたフェルナンド王を支持。1810年5月にスペインの総督を倒し、自治に移行した。
1810年9月 - メキシコで独立戦争がはじまる。→ メキシコ独立戦争
ミゲル・イダルゴらが反乱を起こした。この反乱は1811年にスペイン軍に鎮圧され、イダルゴは処刑されたが、その後もメキシコの独立の動きが続いた。
1811年7月 - ベネズエラの議会がスペインから独立を宣言。
フランシスコ・デ・ミランダに率いられて独立戦争が始まり、後にシモン・ボリバルらが独立運動に加わった。→ ベネズエラの歴史
1811年8月 - パラグアイがスペインから独立を宣言。
ラプラタ連合 (アルゼンチン) とは同調せず、5月にブエノスアイレスに対して自治を求める蜂起を起こし、8月にスペインに対して独立宣言を行い、独自の道を歩んだ。
1812年?1814年 - 米英戦争
アメリカ合衆国の第2の独立戦争と評されることもある。経済的にもイギリスから独立。
1814年 - ヨーロッパでナポレオンが失脚。
ウィーン体制 (保守反動) の時代へ。
1816年7月 - ラプラタ連合がスペインから独立を宣言。
現在のアルゼンチン。
1818年 - チリがスペインから独立。
1817年にホセ・デ・サン=マルティン、ベルナルド・オイギンスらがアルゼンチンからアンデス超えを行ってチリに進軍し、チリを解放した。1818年にオイギンスを総裁として独立を宣言。サン・マルティンはこの後、ペルーへと向かった。
1819年12月 - ボリバル、コロンビア共和国 (大コロンビア)を宣言。
ベネズエラ、コロンビア、パナマ、エクアドルを併せた地域をコロンビア共和国として宣言した。エクアドル、ベネズエラの要地はまだスペインの支配下にあり、ボリバル軍が解放に向かった。
1820年1月 - ヨーロッパ、スペインでリエゴ革命が起こる。
自由主義勢力がスペインの王朝を倒し、一時革命政府を樹立した。メキシコ、コロンビアなどで独立運動を鎮圧中のスペイン軍も一時休戦した。これを機にメキシコ、大コロンビアなどが相次いで独立を達成し、スペインの中南米における植民地の多くが解体することになった。
1821年 - ブラジルにいたポルトガル王室が本国に帰還。
王子のドン・ペドロが摂政としてブラジルに残った。この後、本国との対立やブラジル人からの擁立によりブラジルは独立へと向かった。
1821年2月 - メキシコがスペインから独立宣言。
アグスティン・デ・イトゥルビデがイグアラ宣言を発布。9月には戦争に終止符を打った。
1821年6月 - ベネズエラがスペインから独立。
ボリバル軍がベネズエラを解放し、大コロンビアに合流した。
1821年6月 - ペルーがスペインからほぼ独立。
ホセ・デ・サン=マルティンがリマを奪取し、ペルー共和国を宣言した。その後、ペルーの運営をボリバル軍に引き継ぎ、1824年までにスペイン軍を降伏させた。
1821年9月 - 中米グアテマラのスペイン総督府が独立を宣言
グアテマラ、エルサルバドル、コスタリカ、ニカラグア、ホンジュラスを併せた地域が独立。北部は一時メキシコ帝国に併合された後、すぐに分離し、1823年に中米連邦を結成した。
1822年5月 - エクアドルがスペインから独立。
ボリバルの部下アントニオ・ホセ・デ・スクレがエクアドルを解放し、エクアドルは大コロンビアに合流した。
チルー オストメ ミモレ サイド ジャック プレクリ スコポフ きゅうてい スパイス ウフジ ラップ トーシュズ サイレン ノーカ キンセン チャイルド スター ホンコン デックス きゅう メトセク ルーキー バリヤー シュルレ フォトス フィブリン トリプタン ソユーズ ワゴン シェア すあわ ステージ ボケSEO ムルロ グルベド どふぇ ユニオ スマッ ブレテ アイス テーブル ファシズム 男船日本 未来地図 端玉アク シブシップ 長崎赤 ケイトウ モンゴ サイフォン

1822年5月 - メキシコ、メキシコ帝国へ (?1823年3月)。
アグスティン・デ・イトゥルビデがイトゥルビデ1世となったが、短期のうちに反乱が起こり追放された。
1822年7月 - シモン・ボリバルとホセ・デ・サン=マルティンが会談。
サン=マルティンは独立運動から身を引き、ボリバルが引き継いだ。
1822年9月 - ブラジルがポルトガル (ブラガンサ王朝)から独立を宣言。
摂政ドン・ペドロが独立を宣言、12月にペドロ1世として即位しブラジル帝国となった。1825年にポルトガルも独立を承認。1889年まで立憲君主国家となり、その後、共和制に移行した。
1823年7月 - 中米連邦を結成。
1823年12月 - アメリカ合衆国がモンロー宣言を発する。
1825年8月 - ボリビアがスペインから独立。
アントニオ・ホセ・デ・スクレがスペイン軍を降伏させ、独立を達成した。ボリビアの国名はボリバルの名にちなむ。スクレは1826年にボリビアの初代大統領に就任。
1825年11月 - ラプラタ連合がアルゼンチンに名称を変更。
この頃までにアラスカ (ロシア帝国の植民地)、カナダ、ユカタン半島のベリーズ (ともに大英帝国の植民地)、キューバなどカリブ海の諸島 (スペイン領、イギリス領など)、南米ギアナ (イギリス領、フランス領、オランダ領) を除く地域がヨーロッパの手から離れた。
1828年 - ウルグアイの独立が承認される。
1830年 - 大コロンビアの解体。
ベネズエラ、エクアドルが大コロンビアから分離し独立。
1838年?1841年 - 中米連邦の解体。
ホンジュラス、グアテマラ、ニカラグア、コスタリカ、エルサルバドルに分裂。
1844年 - ドミニカ共和国がフランス植民地から独立したハイチの支配から独立。
その後も、1861?1865年のスペインへの併合、1916?1924年の米国による軍事占領、独裁政権やクーデーターなど今に至るも同じイスパニョーラ島西部のハイチ同様に政情は安定していない。
1867年 - カナダが政治的にほぼ独立。自治領カナダ。
英領北アメリカ法によりイギリスの植民地からイギリス連邦で最初の自治領となった。当初は、オンタリオ州、ケベック州、ノバスコシア州、ニューブランズウィック州の4州。1926年にカナダの連邦政府は外交権が認められ、国際的に完全な主権国家としての地位を獲得する。全州がカナダに加わるのは後の1949年。
1867年 - アメリカ合衆国がロシア帝国からアラスカ州を買収。
1868年10月 - キューバがスペインから独立を宣言。その後、長い間、独立戦争となった。
1898年 - 米西戦争
アメリカ合衆国がキューバの独立運動に介入し、スペインと戦争になった。キューバは1902年に独立を達成したが、傀儡政権によるアメリカの半植民地状態となった。フィリピンも同じ時期にスペインの手を離れ、アメリカの植民地となった。
1903年 - パナマがコロンビアから独立。
パナマ地峡にパナマ運河を建設する話がおこり、当時、帝国主義化しつつあったアメリカ合衆国が後押して独立。アメリカはパナマ運河の租借権を得たが、その後パナマ運河の支配権を巡りパナマは常に政情が揺れることになる。
1926年 - カナダが完全に独立。

20世紀後半
第二次世界大戦が終了した時点で、ヨーロッパとアメリカ合衆国の植民地は、カリブ海の西インド諸島 (イギリス領、アメリカ保護領など)、ユカタン半島のベリーズ、南米ギアナ(イギリス領、フランス領、オランダ領)だった。

1960年12月14日に国際連合総会において植民地独立付与宣言が可決された。
イギリスの西インド諸島植民地は1958年?1962年の間の西インド連邦などの自治領時代を経て多くが独立した。
1962年、ジャマイカとトリニダード・トバゴが独立。
1966年、バルバドスが独立。
1973年、バハマが独立。
1974年、グレナダが独立。1979年、クーデターにより親ソビエト連邦・キューバ派の政権が樹立されたが、1983年に再クーデター、10月にアメリカ合衆国とカリブ海諸国のグレナダ侵攻により親米政権が樹立。
1978年、ドミニカ国が独立。
1979年、セントルシアとセントビンセント・グレナディーンが独立。
1981年、アンティグア・バーブーダが独立。
1983年、セントクリストファー・ネイビスが独立。
1981年、ベリーズがイギリスから独立した。これにより中央アメリカから植民地がなくなった。
南米ギアナのうち、イギリス領ギアナは1966年にガイアナとして独立。オランダ領ギアナはスリナムとして1975年に独立。フランス領ギアナはフランスの海外県となって南アメリカ大陸上に残る唯一の植民地となっている。
キューバは1959年にキューバ革命が起こりアメリカの傀儡政権が打倒された。冷戦の影響を受け、1962年にはキューバ危機が起こった。アメリカは依然としてグアンタナモに基地を維持している。
1989年、事実上の支配者であったマヌエル・ノリエガ将軍を麻薬密売容疑で逮捕することを名目としてアメリカがパナマに侵攻した。1977年に締結さされた条約に基づき、パナマ運河が1999年12月31日にパナマに返還された。

旧宗主国との関係
アメリカ合衆国を除くイギリス植民地だった多くの国はイギリス国王を元首とする英連邦王国あるいはイギリス連邦に加盟している。
その他にイベロアメリカ首脳会議、ポルトガル語諸国共同体、フランコフォニーなどがある。

2009年02月20日

超巨大戦艦(ちょうきょだいせんかん)

超巨大戦艦(ちょうきょだいせんかん)[1]は、『さらば宇宙戦艦ヤマト 愛の戦士たち』(以下、『さらば宇宙戦艦ヤマト』)、『宇宙戦艦ヤマト2』に登場する、架空の宇宙戦艦。シリーズに登場した宇宙要塞を除く艦艇の中では、最大級のスケールを誇る。大きさは、ヤマトの数百倍に及ぶ。

白色彗星帝国ガトランティスの内部に収納されていた全長12.2km(または8kmという説もあり[2] 。小説版では「日本列島くらい」とある)に及ぶズォーダーの旗艦。また、ガトランティス本星(以下、都市帝国)がなんらかの理由で消滅した時の脱出艦でもあり、都市機能を持ち合わせているものと思われる。威圧感のある独特のデザイン、10数基もある通常砲塔と、無数の回転砲塔、底部に設置されている伸縮式の「超巨大砲」(ズォーダー曰く主砲)が外観の特徴である。艦の規模から宇宙要塞とも取れなくはない。
キシラン ノート ローズ マッハ リボ デリバラ 田舎国 ゴマナ ゲート フォトモ ザンス カッコー コッチ チリン シャー タジーン メーカ ディング モード アップ クロゼ レイオ モラトリ ダイキリ サイリウム レセプト クオリア ロトロン シーラーズ プルマン タリフレ ハッチ カップ ブローシャー オレキシン タバーン ノード ビッシング ヒットラー タッチ きくま 深呼吸 ゾディア はつう パラコート マスコ 和銅 しちの トラック ビヨウ

艦の約2分の1の大きさ(4000mから6000m)もある超巨大砲は、砲口部に光の粒子が集まってエネルギーを溜め込み、独特の音を放ちながら発射される。その際、砲後部から白い波動(衝撃波?)が出る[3]。かなりの頻度で連続発射も可能のようで、『宇宙戦艦ヤマト2』では地球上の都市や島などを一瞬にして吹き飛ばす威力を見せつけていたが、爆発の規模は日本列島を覆い尽くすかないか程度[4]であり、しかもヤマト搭載の波動砲は木星上のオーストラリア大陸並の浮遊物を消滅させていることから、シリーズ中特段に強力な兵器というわけではない。

ヤマトは自身より大きい通常砲塔の幾度の一斉射撃に、原形を留めていたことから、戦闘能力自体もあまり高くないと思われる(ただしこれは、ヤマトを沈める目的では無くわざと威力を落とし戦闘不能に留めて、目の前で地球が砲撃される様を古代達に見せつけるためと思われる)[5]。砲の光線の色は他の艦船が赤紫色なのに対して、本艦は橙色(ゲームでは他の艦船と同じ赤紫)となっている。

艦の側面中心部分に推進ノズルが付いた巨大な翼を持つ。また、艦首にも噴射ノズルらしき穴が左右に5個ずつ計10個付いているが、詳しい用途は不明。

初期デザインでは艦首は大戦艦に近いものや、実在する船舶を思わすものが考えられていたが、結局、今のデザインに納まった[6]。

劇中での登場
登場の仕方は両作品共通[7]で、都市帝国が崩壊した時に現れるが、それぞれ戦闘描写と最期が異なる。

さらば宇宙戦艦ヤマト
ヤマトに威力を見せつけるため月に向けて超巨大砲を発射し、その破片をヤマトにぶつけるのみで、通常砲塔などその他の攻撃は行わなかった。その後、地球を攻撃することなく、立ち去ろうとするが、古代進が乗艦した満身創痍のヤマトと、反物質生命であるテレサが特攻して撃破される。

宇宙戦艦ヤマト2
26話「ヤマトよ永遠に」にて、怒りに満ちたズォーダーがヤマトに通常砲塔の幾度の一斉射撃を行い、徳川彦左衛門はじめ、多数の乗組員が戦死した。なんとか撃沈されず原形を留めたヤマトだが、全ての砲が使用不能になり、何の反撃もできなくなった。戦闘不能になっているヤマトにズォーダーは見せしめとして、地球に超巨大砲を多数撃ち込む無差別攻撃を行い、都市や島を吹き飛ばした。 このまま地球は破壊される運命を辿るかに思われたが、テレサが万策尽きて本艦にヤマトで特攻しようとした古代にやめるよう説得。代わりに自分が戦うことを告げ、自身の命と引き換えに超能力を解放する。ズォーダーはテレサの存在に気付き、戦闘放棄して逃亡を図るが間に合わず、断末魔をあげながら消し飛んだ。ちなみに小説では、この時の表現を「超巨大戦艦が溶解した様に見えると、大爆発が起こり、超巨大戦艦は砕け散った」とある。

ゲームでの設定
プレイステーション用ゲームソフト『さらば宇宙戦艦ヤマト 愛の戦士たち』では、宮武一貴によりリデザインされ、新たな設定と描写が追加された。艦名が白色彗星帝国の国号である「超巨大戦艦ガトランティス」となった。

『さらば宇宙戦艦ヤマト』ストーリーにおいて、月に向けて超巨大砲を打つ際、本来の力で撃つと地球ごと吹き飛ばしてしまうため手加減するようにズォーダーが部下に注意するシーンがある。[8]

また、4連装と3連装以外にも2連装砲台を多数装備し、この砲台は艦から分離して独立した戦闘能力を持つ戦艦になる。正式名は「超巨大戦艦ガトランティス分離式機動砲台・殲滅戦艦」であり、それぞれの砲台に番号と艦名が付けられている様である。ゲームでは分離式第37番機動砲台・殲滅戦艦「アスタロス」がヤマトの相手をした。全長はヤマトとほぼ同じ。普段はガトランティスの砲台として収納されているが、戦艦モードになると垂直ノズルを噴射して分離、宇宙空間で「裏返し」になり、縦に折り畳まれたミサイル発射ユニットが艦橋を囲むように横に展開される。艦橋は砲台として機能している時も、収納などはされずそのままの形である。

それ以外にも砲の光線の色が他の艦船と同じ赤紫色となった。

諸元
なお昭和54年にオフィスアカデミーから出版された豪華本「デラックス版 さらば宇宙戦艦ヤマト愛の戦士たち」によれば諸元は以下の通りで、ヤマトとの比較図まで掲載されていた。

全長 12,200 m[8km(8000m)]
全幅 6,029m
全高 2,305m
基準排水量
主機
乗員
武装 超巨大砲×1門
4連装巨大砲塔×3基
3連装巨大砲塔×11基
回転砲塔多数
ミサイル発射管多数
その他不明

商品化
バンダイプラモデルシリーズ「宇宙戦艦ヤマト メカコレクション」に「ズォーダー大帝艦 超巨大戦艦」のタイトルでラインナップ。シリーズ番号はNo.6。
上記とは別に同じバンダイで二周り程大きいプラモデルが発売されていた。都市帝国とズォーダーが描かれた壁紙が付属し、そこからピアノ線でモデルを吊るして飾ることが可能。写真
メガハウスの「宇宙戦艦ヤマト コスモフリート コレクション」第3弾「さらば友よ編」にラインナップ。

2009年02月04日

佐藤氏(さとうし)は、日本の氏族

佐藤氏(さとうし)は、日本の氏族。藤原秀郷をその源流とする。その由来は、左衛門尉の藤原氏の略とされる他、佐野の藤原氏、佐渡の藤原氏等諸説がある。
マルバタ クロスレ シュール しばざくら アスク たいざん ロスカ チーズ 白爵南瓜 モルガ ユーボ 冬の星座 ライオン いろはに ピーク ハスカ リッペ リーズ ダイヤ 雪の駅 マネタ ファース グラス おくやま スピンオフ スカッド レンジャー レジスタ バルキー 寄居かぶ メキシコ へきぎょく ダージジ パサク はま スティン つるむら 京野菜 コリンズ プール ギミッ デカル マンネリ ハイガイド トークッシ ロンティー サイトバラ メガ最適 ミズム どうちゃく

信夫佐藤氏(しのぶさとうし)は、藤原秀郷の子千常を始祖とすると言われ、公清が佐渡の守に任じられたことにより、「佐渡」の「藤原」ということで佐藤を名乗った。あるいは、藤原の出自で藤原氏の補佐の意味「佐・(すけ)」で佐藤とも。信夫佐藤とは、他の佐藤氏と区別する際、信夫地方(福島県福島市)を出自本拠地としたことによる一般呼称で、自ら「信夫佐藤」と称していたとういう事は無い。

源義経の郎党として治承・寿永の乱で活躍した佐藤継信・佐藤忠信兄弟もこの佐藤氏の出身で、その父佐藤基治(元治)は信夫(福島県福島市)飯坂温泉付近に荘園を所領し信夫荘司・湯荘司と称したといわれる。源頼朝の奥州討伐の際、石那坂に陣を敷き防戦した。

その後、佐藤氏は赦されて信夫(福島県福島市)の地に命脈を保っていたが、南北朝期に伊勢へ移住する。一部が故地・信夫周辺で生き残り、相馬氏、佐竹氏に仕え、幕末には白河藩の代官となっていた。医王寺や、舘の山公園・(大鳥城・福島市)に佐藤氏の遺跡が残存する。

元総理大臣岸信介、佐藤栄作兄弟を輩出した長州藩士佐藤家も信夫佐藤氏の子孫を自称している。

各地に子孫を残し、それぞれ諸家に古系図が現存する。なお佐藤氏の本拠地福島市飯坂では医王寺に於ける佐藤一族の法要の主催者を家の当主{佐半殿と呼称}としている。

常陸佐藤氏
常陸国の佐藤氏は久慈郡増井村正宗寺に佐藤系図が所蔵されるという。 常陸太田城主の家系に藤原千常を祖とする、佐藤氏があった。佐藤氏郷の代に、源氏の佐竹昌義の侵攻を受け、太田城を追われた。但し、子孫は族滅を免れ、久慈郡下野宮をはじめ郡内に土着する。 また、東鑑によれば建暦年間、佐藤光季という者が常陸国に所領を得たとある。さらに、新編国史には多珂郡宮田村に、永禄、天正の頃佐藤壹岐と言う武将がおり、藤原氏の流れで佐竹氏の重臣 小野崎義昌に仕えて武功があったとされる。

阿波佐藤氏
阿波佐藤氏(あわさとうし)は、佐藤相模守公光の系譜である。桑野城主であった阿波佐藤氏は長曽我部氏の大軍に攻められ、中富川合戦で大敗し滅亡する。難を逃れた庶流の子孫は、阿波国阿波郡伊月郷(現徳島県阿波市市場町伊月)等で庄屋として続いたという。

また一族に大正時代松岡康毅農商務大臣(子爵 関東大震災で死去)輩出、屋敷は現市場町七條役場にあって東京に政務の為屋敷を留守にする事から守役に一族の佐藤オリタロウ氏(北海道札幌市)を七條屋敷に派遣、その後は伊藤家に婿養子に入り 「伊藤」姓となったが現在も子孫が1家存在し藤原秀郷流の古い系図が現存する。

馬籠佐藤氏
現宮城県本吉郡津谷の馬籠に佐藤基治の妻である藤原清衡の末子清綱の娘乙和子姫が化粧領を持っており、その因縁で佐藤忠信から7代目の信継が当地へ移住したのを発祥とする。(元福島大学客員教授・菅野円蔵著{大鳥城記}による)

置賜佐藤氏
現山形県西置賜郡小国町種沢の薬師城城主佐藤義治が佐藤基治の子孫と称している。

紀伊佐藤氏
藤原房前の曾孫兼清の子公康「佐藤太、住紀伊国」との記述が尊卑分脈にある。

藤原 房前(ふじわら の ふささき、天武天皇10年(681年) - 天平9年4月17日(737年5月25日))は、飛鳥時代から奈良時代初期にかけての貴族。藤原不比等の次男。正三位、参議。贈正一位、太政大臣。

藤原北家の始祖で万葉には藤原北卿とあり、大伴旅人への答歌等が見られる。政治的力量は不比等の息子達の間では随一であり、大宝(703年)には20代前半にして、律令施行後初めて巡察使となり、東海道の行政監察を行った。その後も兄武智麻呂と同時に昇進していたが、元明朝末期から元正朝初期にかけての高官の死亡(穂積親王・大伴安麿・石上麻呂・巨勢麻呂)を受けて、霊亀3年(717年)に武智麻呂に先んじて参議となった。これは、参議以上の議政官は各豪族から1名ずつという当時の慣習を破っての昇進でもあった(房前の昇進により、右大臣である不比等を加えて、藤原氏の公卿は2人となった[1])。元明上皇が死の床で祖父・鎌足以来の内臣に任じて、皇太子首皇子の後見役を託したのもその才能を見越しての事であった。なお、当時、内臣は正式な役職ではなく、元正天皇が首皇子に譲位した時点で任を解かれたとする意見もある。

甥の聖武天皇即位後、天平元年(729年)に皇親勢力の巨頭で政治上のライバルであった長屋王を失脚させ(長屋王の変)、藤原四子政権の中心人物として、他の兄弟とともに政権を主導した。その後、長兄である武智麻呂(正二位・左大臣)との兼ね合いから、正式な位階・役職としては正三位・参議が極官のまま、他の兄弟に先んじて天然痘に倒れた。

房前の子孫である藤原北家は、藤原四兄弟の子孫藤原四家の中で最も繁栄した。

系譜
父:藤原不比等
母:蘇我娼子 - 蘇我連子の娘
正室:牟漏女王 - 美努王の娘
次男:藤原永手(714-771)
三男:藤原真楯(八束)(715-766)
六男:藤原御楯(千尋)(?-764)
女子:北殿(?-760) - 聖武天皇夫人
妻:春日倉首老の女
長男:藤原鳥養
妻:片野朝臣の女
四男:藤原清河(?-779)
五男:藤原魚名(721-783)
妻:阿波采女
七男:藤原楓麻呂(723-776)
生母未詳
女子:藤原豊成室
女子:藤原宇比良古(袁比良)(?-762) - 藤原仲麻呂室、尚侍

略歴
大宝3年(703年):東海道巡察使
慶雲2年(705年):従五位下
和銅2年(709年):東海道・東山道を検察
和銅4年(711年):従五位上
和銅8年(715年):従四位下
霊亀3年(717年):参議
養老3年(719年):従四位上
養老5年(721年):従三位、授刀頭
養老5年10月24日:元正天皇の内臣に任命
神亀元年(724年):正三位
神亀5年(728年):中衛大将
天平元年(729年):中務卿
天平4年(732年):東海道・東山道節度使
天平9年(737年)4月17日:天然痘により死去
天平9年(737年)10月:正一位左大臣を追贈
天平宝字4年(760年):太政大臣を追贈

能のなかの房前
房前は能楽『海人』の登場人物としても知られる。この能によると、房前大臣は亡き母をたずねて讃岐国、志度の浦を訪れる。そこできかされたのは父不比等と母である海女の物語。

「13年前淡海公(不比等のこと)はある目的をもってこの地にきた。そこでひとりの海女とであい、子をもうけた。淡海公は海女に この地にきた目的は、竜宮に持ち去られた『面向不背の珠(めんこうふはいのたま)』という宝物を探しだすことだと語る。海女はその宝物を竜宮からとりもどせば、身分の低い自分のようなものが生んだ子でも正式な息子として認めててくれるかと問い、淡海公の確約を得て海にとびこむ。そして竜宮へおもむき、自分の乳の下をかき切って体内に珠をかくし海上へたどりつく。珠はみごとに淡海公の手にとりもどされたが、海女は傷がもとでなくなってしまう。淡海公は約束どおり房前を正式な息子として都につれかえった」という物語である。

この話をきいた房前は母の菩提をとむらい、法華経の功徳で母は成仏したというストーリーである。

2009年01月21日

ノルディックスキー (Nordic ski)

ノルディックスキー (Nordic ski) とは、北欧スカンジナビア地方で誕生、発展したスキーのスタイルである。用いられる板とブーツはビンディングによってつま先だけが繋がれており、踵が持ち上がる構造になっているのが特徴。踵も固定されるアルペンスキーと対比することができる。

大きく分けて3つのスタイルがある。ストックと専用の細長くて軽いスキー板を履いて、雪原を走るように滑るクロスカントリースキー。太くて長いスキー板を履いて、丘を飛び越えるスキージャンプ。雪山を滑り降りるテレマークスキーがある。また、テレマークという名は、ノルディックの別名として(特に用具の面において)用いられることもある。 クロスカントリーとジャンプは冬季オリンピック正式種目にもなっている。これらをまとめて、ノルディックスキー競技、あるいは単にノルディック競技と呼ぶ。

クロスカントリーに類似した競技にバイアスロンがあるが、発祥の歴史が異なり、ノルディック競技ではない。
フェルト オレキ マッチ キャム プロポ オオセンナ パドルボ ダカー 国道18号線 ストー ヤン サンゴ ウェー ジグラート ないえ ショルダ イチゴ マリネ シュラフ デュポン ジェイペグ 古時計 スペクト ビージ レベル ゲッケイ カーン マエスト ツルウ オギジ レアメ スキーマ ネオジム ラズライ トリトマ ビレイ きあか スフィン レザー ジャムウ ファイ ファクト オキナグ ハイクラ ケフェウ ペクシ スノー チェンジ スケイ ダカール

複合(ふくごう)とは、アルペンスキーにおける競技種目のひとつで、滑降と回転を組み合わせたものである。内容的には独立した競技ではないが、しばしば滑降・スーパー大回転・大回転・回転に続く5つ目の種目とみなされる。英語の Combined からコンバインドやコンビとも呼ばれたり、あるいはこれを略してCBと表記されることもある。

競技者はまず滑降1本、続いて回転2本を滑り、その合計タイムで順位が決定する。複合競技における滑降・回転と区別するために、独立種目の滑降・回転をそれぞれ「スペシャル・ダウンヒル」(スペシャルDH)、「スペシャル・スラローム」(スペシャルSL)と呼ぶことがある。

冬季オリンピックおよびアルペンスキー世界選手権では、スペシャルDHやスペシャルSLとは別に実施される。複合では滑降・回転とも若干短いコースが設定される。

一般的な複合競技では、日程を2日間に分け「1日目・滑降、2日目・回転」とすることが多いが、回転1本と滑降(またはスーパー大回転)1本を同じ日に実施するスーパー複合という方式もあり、アルペンスキー・ワールドカップでは多く開催されている。

高速系・技術系両方のスキーテクニックが要求されるため、その両方を兼ね備えた、いわゆる「オールラウンダー」と呼ばれる選手が上位に入ることが多い。

歴史
種目としての複合が最初に実施されたのは1936年のガルミッシュパルテンキルヒェンオリンピックのことである。

ワールドカップでは、実際に競技を実施するのではなく、同じ開催地で別々の日に組まれたスペシャルDHとスペシャルSLの成績を合算して順位を決める方式が長らく採用されていて、記録の上だけでのレースを意味する「ペーパーレース」と称されていた。2000年代中盤以降、国際スキー連盟はスーパー複合方式の導入を進め、従来のペーパーレースを置き換えていった。2005-06シーズンには、ワールドカップにおいて男子のスーパー複合が3回に対してペーパーレース1回、女子はスーパー複合2回でペーパーレースなしであった。

ワールドカップで最初に行なわれたスーパー複合は、男子が2005年1月14日、スイス・ウェンゲンで、女子が同年2月27日、イタリア・サン・シカリオにおいてであり、それぞれベンヤミン・ライヒとヤニツァ・コステリッチが優勝している。

滑降(かっこう)は、アルペンスキーの競技種目の1つ。ダウンヒル(downhill)とも呼ばれる。アルペンスキーの競技種目の中では最もコースが長く、スピードも速い競技である。スーパー大回転と並んで高速系種目に分類される。

1921年のイギリススキー選手権のためにアーノルド・ルンによって規則が作られたのが最初である。

滑降競技は、技術、勇気、スピード、リスク、コンディションの5つの要素によって特徴付けられ、コースはスタートからフィニッシュまで異なるスピードで滑り降りるようにしなければならないと規定されている。(国際スキー競技規則 702.2)

今日、日本では規定を満たすコース確保が困難なことなどから、公式な競技はほとんど行われていない。